SUZUKIのエッセーをお楽しみください。

アエイシとオレンジ

『神様の舌はみどり』というニクイせりふを吐いた順三郎さんから、「ミ、ミオコさん、ゲ、ゲンコウを…」、という吃音の電話が来た時、わたしの頭の中にまっ先に甦ったのはエジプトでかじった一枚の「アエイシ」の味である。順三郎さんの電話回線の暗闇からわたしの記憶の暗闇に、ある種の信号が発せられて、わたしの忘れかけていた記憶が埋もれた時間の中からふいに姿を現したのだ。
わたしは電話を切るなり、鼻をつままれても分からないほどまっ暗なエジプト、ルクソールの深夜の道をひた走るリムジンバスの座席に心細く座る自分にいきなり引き戻されていた。
時間は十一時を少し回っていただろうか。運転席のうしろに座ったわたしの後方では、勤めを終えた数人の空港職員がたいそう陽気にはしゃいでいた。お客はわたし一人で、あとは皆、アスワンから来た最終便をカイロへ向けて離陸させ、一日の仕事を終えた男性の空港職員ばかりである。わたしは、カイロの空港で行き先の間違えたタグをつけられたままアスワンまで飛んでいってしまったわたしの荷物を待って、その時間までルクソール空港にとどまっていたのだ。
折り返しの最終便で荷物は戻るからと言われて、延々五時間、ガランとした誰もいないベルトコンベアの横で待ち続けていたが、荷物は戻らなかった。朝、カイロのホテルで軽い朝食を取った切り、何も食べていない。(日本の空港のように、食堂だのショッピング街だの、そんなものはひとかけらもない)荷物は届かずホテルの予約もなしで、これからどうしょうかと、空腹も忘れ途方にくれてまっ暗闇のバスの外を見つめていると、ふいに肩ごしにふところめがけて一個のオレンジがポロリと転がり落ちて来た。
荷物なしの空身の心にポロリと重い球形の安心を一つ与えられて、思わず「Thank You !」と振り向くと、一人の男性が照れたようにアラビア語で何か言い、それを食べなさいというジェスチァをしている。ワーッと歓声が上がり、ヒョー!ヒョー!というひやかしの声が広がって、バスの中は大変な舞い上りようとなった。
そうか、ここはイスラム国で、こんな夜中に女が一人バスに乗っているなどということはあり得ない国なのだと思い、彼等はとりあえずわたしを女性と認めてくれたのだなと納得して、すべやかな肉厚の丸みに安堵の重量を確かめていると、バスのライトの底から、炭火のようなものを囲んでたむろしている黒い人々の群れが浮かんできた。
インドもそうだったが、街灯などの全くない、漆黒の闇の中に、所々カンテラが灯り、黒々とした人々のたむろがあるとそれはたいていチャイの屋台であったり、貧しい日用雑貨の屋台であったりした。こんなに遅くに、人々はいったい何を商っているのだろうと思っていると、バスはその群れの一つに止まり、運転手がアラビア語で後部座席の人々に何やら確かめるとバスを降りていった。
ややしばらくして、長さ二メートル、幅二十?三十センチもあろうかと思う細長い板を肩にして戻って来た彼は、その上に並べ重ねてあった数十個の、直径二十センチほどの円板状のものを運転席の前のフロントガラスの台の上にザアと思い切りよくぶちまけた。そしてその一枚を取り、わたしのひざの上にひょいと投げてよこしたのである。
車内いっぱい、気の遠くなるような濃密なこうばしい香りが立ち込め、ひざの上にあたたかいぬくもりが広がって、わたしはあっと驚いた。焼きたてのエジプトパン、アエイシ(正確にはアエイシ、バラディ)だったのだ。炭火の明りはアエイシを焼く火であり、人々の群れは明日一日のアエイシを買う勤め帰りの人々だったのだ。
パンをぶちまけて空になった板を返しに行った運転手が再び戻るとバスは発車し、空港職員は一人二人と必要な枚数のアエイシを降りる間ぎわに運転席の前からわしずかみにして、途中下車し家路に消えていった。その間、わたしは、運転手の後ろ姿とその前に広がる暗闇を見つめながら、黙々とアエイシをかじっていた。
粗挽き小麦のゴツゴツとした歯ざわりと、心地良く口に答えるもち状の歯ごたえは、インドのチャパティやナンよりももっと素朴で、もっとはるかに逞しかった。発酵も何もしていない、無漂白粗挽き小麦をただ水でこねて、円板状に薄く伸ばし、大きな中華なべを伏せたような鉄の板の上で焼いた、それだけのものである。人工的な塩味も甘味もないが、かみしめると麦の穂からにじみ出るこうばしさと旨味があって、麦そのものの味である。チャパティもナンも、もう少し人知の操作があるが、アエイシにはそれがない。外皮も胚芽もそのまま混入されていて、ひたすら大地そのままの味わいなのだ。
それまでカイロで何度も食べてはいたが、焼きたての馥郁たる香ばしさとぬくもりは、それまで味わったどの食物にもない深淵な実在感をわたしの歯と口に与えた。砂漠と同じ、人知を寄せつけないあるがまま、これがパンの根源なのだ。脈絡もなく、エジプトを出る聖家族の後ろ姿が脳裏に浮び、それがヨーロッパに至るまでの長い長い麦の時間をわたしの歯は逆戻りしていた。肉ではない、やはり穂なのだ、穂が先なのだと、わたしはなぜともなく納得していた。
その夜、わたしのひざの上にアエイシを投げてくれた運転手ムハマド氏は、空港職員全員が降り去ったあと、空になったバスをタクシー(彼はタクシードライバーでもあった)に乗り換えて、ルクソール中のホテルを空室をさがして走り回ってくれた。しかし、どのホテルもネズミ一匹泊まる余地なく満室で、彼はとうとう、妻と三人の子供のねむる彼の家へわたしを泊め、自分はリムジンのオフィスでねむるはめになった。
わたしは彼の提供してくれた丈高いアラブ式ベッドの上で、握り続けていた一個のオレンジを地球の命を割るようにして剥き、かじり、それからうすくねむった。ずい分沢山の国を巡り、ずい分沢山の料理を、名前も忘れるほど味わったが、この時の一枚のアエイシと一個のオレンジはわたしにとって究極のグルメであった。この時以上の極上、永遠の美味をわたしはこれからも生涯味わうことはないだろうと、飽食日本の何から何まで精気の抜けた人工感覚お祭り騒ぎの中で思い続けている。
願わくば順三郎男爵も、北の大地の無骨と荒々しさで、一億総傷つき恐怖症をぶち壊し、底に根深い残酷を密めた疑似優しさの、なあまあわあ感動主義、過剰マイルドうっり自己陶酔症候群に泥かけて、芋であってどこが悪いと、ごろりと実在を転がり出るむき出しの宇宙内蔵ぶちまける手に負えないしたたかで孤独な醜いじゃが芋の一つであってほしいと、詩というものの中で外皮も胚牙も排除できずに砂までジャリジャリかんでしまうわたしの歯は思うのだ。

 

(はやしみおこ・詩人)

じゃがいもイマジズム物語

じゃがいもを思うと順三郎を思う。北海道を駆けぬけるスキーのハイジャンプのアーティスト。カッコイイ、鉄人ならぬ鉄のアーティスト。もう一人はムツロー。高橋睦郎は、ゆでたほかほかのじゃが芋にたっぷり北海道のバターを塗り、それをほとんど平らげながら子守をしてくれた、昔々のこと。うちの娘が小学生の頃、わたしが夜遊びに出かけたあと朝までベビー・シッターをしてくれたのだ。
その娘も今はロンドンに住みつき、睦郎は鎌倉で風情のある家でますます、詩のみちの奥深いラビリンスをさ迷い、その美味をペンの先にすくっている。
じゃがいもを思うと、わたしはあの寒いロンドンより北よりのかっての漁村ハンバーサイドの詩人ロバート・リチャードソンを思う。トツゼン、手紙がきて「イマジズムへのオマージュ」だから、ぜひ、招きたい。エズラ・パウンドはこの土地でイマジズムの運動をおこしたのだ。彼は日本の俳句や版画「浮世絵」に影響をうけた。イマジズムは日本の影響により生まれたのだから、日本の詩人であるあなたにこのイマジズム○○年祭の祝いにきてもらえれば、この上なく嬉しい。きけばあなたの初期の先生は北園克衛だったとか。
北園克衛とエズラ・パウンドは生涯、文通しあった仲で、パウンドはKit-Kat(チョコレートに同じ名があります)とニックネイムをつけた。「親愛なるKit-Kat、あなたのくににもオリーブの実がなりますか?」これはパウンドがイタリアの、ジェノバに住んでいた折り、北園克衛に出した手紙で彼の書簡集にのっている。ジェノバは海岸よりの街でキラキラと濃い緑のオリーブの葉が並んで光っていたのをおぼえている。ここで詩と音楽の国際詩祭があり、わたしはトランペットの沖至と招かれ、古いローマ時代の会議場のようなところで詩の朗読をした。この時、石の階段は実にゆるい、ゆるいカーブでむかしは馬に乗りながらあがっていくようになっていた。
わたしは馬には乗らなかったが、馬上で詩の会場に行ったことはなかったが馬になったつもりで、その薄い段差の階段をあがっていったのをおぼえている。
ジェノバの美しい森の公園、広場でも朗読したがどこか、下街っぽいところのお祭りの盆踊りのやぐら舞台のようなところで星空の下で朗読した時のことは忘れられない。わたしたち、大人の詩人たちの朗読が終わるやいなや、待ちかまえていたようにワンパクな五?六才くらいから十二才くらいの男の児たち六?七人が争って舞台にあがり、マイクをうばって唄いだした。皆、いっぱしの歌手きどり。可愛いお目々をパチクリさせ、大きな口でマイクに食いつかんばかりに押しあい、へしあいしてうたっていたのが可愛くて、可愛くて。
ああ、とても脱線してしまった。そもそもロバート・リチャードソンの招きでハンバーサイドに行ったときのことだ。ここはロンドンからローカル線に乗っていく。途中にサッチャー女史の出身地のさむざむとした駅がある。あの味気ない、うそ寒いところから出てくるのだから彼女が鉄の女と呼ばれるのも当然と思えるハードな場所だ。ハンバーサイドの駅の傍にある唯一のホテルを、わたしのために用意してくれた。そこで食べた夕食のスープはさめていて、じゃがいも、人参などのゆでた野菜が大皿にゴロンとのっている。駅前の荒地に大きな石ころが転がっている風に。
食べると案の定、がしがしと音がし、味も素っ気も無い、ただの石ころだ。ああ、あの日本のじゃがいもの美味と天地の差。ここロンドンより数時間のハンバーサイドがわたしには地の果てに思えた。ここにくる一週間前はバングラデシュのダッカでアジア詩祭があり、あつい、あそこで食べたココナツ入りエビカレーは絶品であった。貧しいと云われるバングラの食べるものすべてが超、よい味でアジアの食文化の頂点からわたしはドーンと谷底につきおとされ、何もない荒れ野にビュービュー、風吹きすさぶ寒い土地でじゃがいもにつまずきながら、ああ、たべもの、やーい!と叫ばねばならなかった。貧しいから冷房、いや、暖房もできずにいるがそれに文句もいわない英国人のがまん強さをみた。それに昼になっても昼御飯を食べようとしない。わたしは何か食べなきゃ、と叫んだ。おなかがすいたのか?と聞くから、食べなきゃ、元気が出ないで病気になっちゃうよ、食べなきゃ、食べなきゃ!とわたしが何度もいうので、やっとレストランに連れていってくれた。
あとできくと、彼らはお昼は紅茶にビスケットですますのだ。貧しい人たちは、そうするのだと云う。あつい四十七度のエジプトでも平気だが寒さに弱いわたしは既にノドが痛み、頭痛がはじまっている。サッチャー女史を思った。このガチガチの石ころみたいなじゃがいもしかない土地からきたのだから、彼女は鉄でも食べるだろう、強い筈だと。わたしはハンバーサイドを恨んでいるわけではない。厳しい予算の中でリチャードソンは実によくしてくれた。二日ほどの休日には更に北に数時間、海岸線にそって車を走らせ、ロビンフッド・ベイまで連れていってくれた。車の後席でわたしは熱があり、肺炎になってここで死ぬのはイヤだと思いつづけた。ついてみたら海鳥、カモメが灰色の空をガーガー何百羽と飛び、啼き、海は三メートルほどの高さに灰色に押し寄せ、海に面した黒い岩から岩へ、もし義賊ロビン・フッドが逃亡したのなら、映画のカッコよさとちがい、なんと寒々としたところを、可哀そうにわびしく歩いたのだと、心哀しくなった。喘息とか気管支炎にならなかったのだろうか、と要らぬことまで案じた。だがこのベイ・ホテルで食べた魚のフライもワインも美味しかった。はじめて体の内側が暖炉のように明るく暖かくなった。その晩、ふかぶかと眠った。
だが、いまだに忘れられない、ハンバーサイドのぬるいスープと石ころのじゃがいも。

 

P.S.
順三郎よ、あなたは幸福です。あなたのじゃがいもは紅丸君、あのロビン・フッドの現れた土地の、石ころ野郎とちがうもの。あたたかく、ほかほかと。ただ、ゆでるだけで幸福になれるのですから。口の中でとけて、からだの方へ、よろこんではいっていくのですから。
きっと、ロビン・フッドの幽霊が何かの拍子、まちがいで北海道に現れたら、順三郎のところのじゃがいもを食べさせてあげて下さい。よろこんで義賊なんてやるんじゃなかっ前では義賊だって志をまげるものなのです。

 

(しらいし かずこ・詩人)

ジャン・ルノワールのジャガイモ

ジャン・ルノワールの『ラ・マルセイエーズ』は、フランス革命の映画であるが、同時に食物と料理法についての映画でもある。
革命に参加するためにパリに上京したマルセイユ市民軍の宿舎では、大鍋で煮られたジャガイモと玉ネギのシチューが夕食に出され、寡婦である母親と婚約者をマルセイユに置いて革命義勇軍に参加した若い男が、またジャガイモか、ジャガイモにはうんざりだ、と文句をつけるのだが、同じマルセイユ義勇軍兵士の太った中年男で何事につけ物知りぶりを発揮する絵描きが、人の良さそうな丸々した顔を嬉しそうにほころばせながら、ジャガイモをそう馬鹿にしたもうな、と気取った口調で言う。
ジャガイモはルイ十四世の時代にアメリカからもたらされた植物であるが、フランスでは三十六種もの料理法があるのだよ。
大革命時代にジャガイモはすでに三十六通りの料理法で食べられていたのだったが、そういうことを、十九世紀の美食家のパリのプチブルジョワジーのような口調でマルセイユ義勇軍兵士が口にするこの映画は、映画製作に資金を出したフランスの労働組合には不評だったらしいし、革命軍がヴェルサイユに迫っているというのに、近頃マルセイユからパリに持ちこまれた新しい野菜である“トマト”の料理を試食しているルイ十六世(ジャンの兄、ピェールが演じている)の“感じが良すぎる”ことも噴激を買ったらしい。
しかし、私は、『ラ・マルセイエーズ』という映画のことを考える時最初に思い出すのは、金属の皿に大鍋からたっぷり盛られる湯気の立つジャガイモ料理のことである。一センチ程の輪切りで、切り口の周囲が柔らかく粉をふいたように煮る。おそらくタマネギとベーコンとスープで煮込んだのだと思われるシチューは、それがジャン・ルノワールの映画の特質なのだが、料理の匂いがあたたかな食欲をそそる匂いとして、画面から見る者の鼻先きにはっきりと伝わってくるものだから、画面を思い出すと、ついジャガイモを食べたくなってしまうのである。
ところで、このルノワール風ジャガイモ・シチューをおいしく食べるためには、ジャガイモの質を選ぶことがとても大切なことで、言うまでもないことであり、むろんお世辞などではなく、鈴木順三郎さんの作る男爵と紅丸を混ぜて入れることが重要である。この原稿を書いているのは、むろん、鈴木さんの作るジャガイモを食べたいからで、質に比べれば唖然とする程安い値段としか思えないジャガイモを、鈴木さんは原稿料のかわりにくれるというのである。そこで私は、彼が「紅丸通信」の日記に書いていた「こんな物どうやって食べるのだろう」という作物である花豆(白インゲン豆)のことを思い出し、それもジャガイモと一緒に送ってくれるのなら、原稿などはいつでも書く、と答えたのだった。
『ラ・マルセイエーズ』の物知りの絵描きの言う三十六通りのジャガイモ料理に含まれていたのに違いない、フランスの伝統的田舎料理のジャガイモと豆とキャベツのスープが、鈴木さんの作っている白インゲン(おいしいのに違いない)で作れるからだ。このスープは冬の間、私のところでは何回も登場するメニューで、作り方はとても簡単。
白インゲンは一晩水につけておき、柔らかく煮ておく。シチュー用の大鍋にオリーブ油を熱し、ニンニク一、二片とタマネギの荒みじん切りを色づくまで炒め、四、五センチの角切りにしたキャベツ一個を加えてさらに炒め、スープ・ストック(トリのガラと手羽先きであらかじめ作っておく)と白インゲンを加えてキャベツが透明に柔らかくなるまで煮込み、豆と同量かやや少なめのジャガイモ(一・五センチ程の角切りにしたもの)を加えて煮る。味つけは塩とコショーとタイム。
豆とジャガイモとキャベツとタマネギがとけあって作り出す匂いと味は、あたたかく深味があり、二つの植物のデンプンの混ったなめらかな舌ざわりとキャベツとタマネギの微かな甘味は、それを煮ている間の豊かな匂いを含めて、そして、このスープに良くあうのが、安いフランス・ワイン(軽い味のボージョレー)であることもあって大好きなものの一つなのだ。ただし、豆とタマネギとジャガイモとキャベツを煮込むスープを、スープ・キューヴで代用させないことが重要である。

 

(かない みえこ・作家)

ポーランド風じゃがいもレシピ

北海道に行ったとき、ここはポーランドに似ていると思いました。気候も、風景も、食べ物も、じゃがいもも・・・。ポーランドで二年暮らしたので、ポーランドの生活やポーランドの食べものには多少の思い入れがあります。最初に住んだのは八年前、「連帯」がさかんに当局にはむかっていて、ワルシャワは戒厳令で、モノがありませんでした。二回目は、天皇が代替わりしたり手塚治虫が死んだりしたあの年で、ポーランドは、連帯も共産党もへったくれもなくなった経済的アナーキズムの中、やっぱり断続的にモノがなくなったり、インフレがすごかったりしました。
経済的政治的な理由だけじゃなく、冬や季節のかわりめなんかにも、ほんとにモノがなくなりました。八百屋に行っても、かならずあるのは(それしかないのは)、りんご、キャベツ、酢キャベツ、スープのだし用野菜、ビーツ、そしてじゃがいも。モノがないのは愉快じゃありませんが、モノがあるときの喜びがいやますので、わたしはけっこう楽しんでいました。そういうわけで、とにかくじゃがいもです。いろんなおいしいじゃがいもの食べ方を覚えてきました。それを、いくつかここでご紹介します。

 

●プラツキ(お焼き)
じゃがいも大三個とたまねぎ中一個は粗いめにすりおろします。おろしきれなかったじゃがいものカケラをまぜると、しゃりしゃりしておいしい。卵一個と小麦粉大さじ一と塩小さじ一を混ぜて、ちょっとゆるめのタネを作ります。フライパンに油を多めに熱して、おたまで、じゃっとすくい入れる。へりがちりちりと焦げる。中火で焼いて、うまそうなにおいと焦げ目がついたところでひっくりかえして、裏を焼き、お皿へ。じつはポーランド人は、ここに砂糖をかけたり、ジャムや生クリームのっけたりして食べるんですが、わたしたちは内緒で、しょうゆをちょっとたらして、はふはふ言いながら、ご飯のおかずにいたします。

 

●パン粉かけの茹で野菜たち
新じゃがでも、いんげんでも、カリフラワーでも、なんでもいいんです。ちょっと塩を入れて、柔らかく茹でておく。柔らかく。しゃりしゃりこりこりではおいしくありません。つぎに、小なべにバターを、えっこんなに?というほど入れて火にかける。そこへパン粉と塩少々を入れて煮る。ぐつぐつパン粉は煮えて、茶色くなってきます。で、バターとパン粉が渾然一体となったころに、手早く茹でた野菜を水切りして皿にあけ、その上にざあっとパン粉バターをかける。すぐ食べる。日本の食生活の常識では、つい、少ないバターでパン粉をいためたくなりますが、いためてはいけない。あくまでも、たっぷりのバターでパン粉を「煮る」ようにするんです。

 

●ウクライナ風ボルシチ(ポーランド料理のポイントはスープです)
まずスープのだしを取る。鶏のがらとか牛のスネとか、長ねぎ、にんじん、セロリ、パセリの茎たち(本当は根っこを使う)をぐつぐつじっくり煮て、だしを取り、にんじんは細かく切って、肉は骨からきれいにそぎ落として、あとは捨てます。これがポーランド風スープの基本です。これにトマトと米とか、酢キャベツとじゃがいもとか、カリフラワーとじゃがいもとか。組み合わせによってどんなスープだってできる。ここではボルシチなので、ビーツとじゃがいも。柔らかくなるまで煮て、塩胡椒して、仕上げに、サワークリームをたっぷりめに入れます。ビーツは煮すぎると色がさめます。ビーツの赤にクリームの白がとけて、うっとりするほど、きれいなきれいなピンクです。

 

(いとうひろみ・詩人)

猿と馬鈴薯

私に一篇だけ、北海道で書いた詩がある。
たしか1987年の2月だった。厳冬の北海道各地での自作詩朗唱のマイクロバスの旅の、石狩での日程を終え、北上して遠別で一泊、稚内へ向かう途中、凄い吹雪に遇った。すぐ目の前で国道が閉鎖され、しかたなく最寄りの町にとって返し、一軒だけ開いていた喫茶店に避難した。
板敷きの床の上にがんがん音を立ててストーブが燃える中、熱いコーヒーが運ばれて、ようやく人心地がついた頃、その朝から頭の中でもやもやしていた言葉以前の言葉が、はっきり言葉になってほぐれ出て来た。私は店の片隅に行って手帖に書き付けた。名づけて「猿を食う人びと」、短い作品なのでここに引こう。

 

私は描きたいサルを食う人びとを
バレイショを食う人びとを描いた画家のように
(外は吹雪いている内は火が燃えている)
それは別のことではないランプの下で
バレイショを食うことと森でサルを食うことは
バレイショを食うとバレイショの血が血管を流れる
ようにサルを食うとサルの血が血管を流れる
バレイショを食う人がバレイショになるように
サルを食う人はサルになるそのサルの血が
死で満たされているなら死の猿になる
(死は真っ赤に燃えている生は吹雪いて見えなくなる)
死のサルになるサルを食う人は私と関係のない
誰かではない死のサルを頭からむさぼり食う人は
死のサルになって叫ぶ人は私だ他人ではない
(悲しみで張り裂けそうな死のサルの血は私の血を
死のサルの血にすることをはげしく夢見ている)

いま私は絵筆を取り挙げたバレイショを食って
バレイショになる自分を描きながらその絵筆を
持つ指先からバレイショになった画家に準って
(生は吹雪いている吹雪いている燃えている)

 

この作品の発想の根には当時マスコミで報道されたエイズ=ミドリザル発生説がある。
エイズ・ウィルスがもともとミドリザルに寄生していて、これを食用したアフリカ原住民からエイズが拡がった、という説だ。これが臆説だったことは間もなくわかったが、その後もこの作品が反訳されたりして私の代表作のひとつと目されていることは、エイズうんぬんに関係なく人間と他の生物の関係式となりえているからか、と思う。
そして、それを背後から支えてくれているのが、ヴァン・ゴッホの1885年、ヌエネン時代の傑作「馬鈴薯を食う人びと」だ。「猿を食う人びと」という題名からもわかるとおり、私の詩は若いゴッホ描く、ランプの下で黙黙と馬鈴薯を食う貧しい家族の像を下敷きにしている。
人間を含む生命体は生存を維持するために他の生命体を奪わなければならない。それが食ということだ。それは生存の原罪ともいえるもので、このことは対象が猿であろうと馬鈴薯であろうと、変わりはない。ついでながら、ゴッホのこの作品、「馬鈴薯を食べる人びと」と訳されることが多いが、「食う」でなければ切実さが出ない。このことは馬鈴薯の旨さとはまた別の話だ。
ちなみに、この時のマイクロバスの運転手は誰あろう、この「紅丸通信」の発行者、鈴木順三郎だった。

 

(たかはし むつお・詩人)

薯畑協奏

昼の雷ーさもなくば。さて。微笑んでもいい。「堅固でねぇ」わたしは言い変えた。だめか、ほんとうにだめか、まだ、その地上ではだめか、と。空は高い、風が雲を掃き乱し。
そして立っている。
ここは屈斜路湖畔〈地面〉地区。うち捨てられたやぐら。いちめんの薯畑。
風に鳴るる鉄塔の唄は、桐笛のヴォーッに交響する。
あ、いまのは丸木俊さんが吹いたな。一揆の笛だ。
試錐は失敗だろう、温泉は出るまい。一帯は地面、みどりの薯畑。
そうだ、男爵薯はほくほくに育たねばならない。原爆病院のカボチャはニュージランド産えびす商標より断じて肥えていなくてはならなかったように、地面の紅丸はシャモののどぼとけをひっかくほどよく実がつまっているべきなのだ。
置戸のアート・ファーマー(ペット吹きのほうの)順三郎が、あくまでほくほくの男爵薯を育てるころ、コタンの詩人・美波子さんは、手紙を受とりに美留和の駅舎まで出かけていった。真夜中青の美林をぬけて、紅丸畑を横切って。
ある日は書留を受とりに。
またある日、そこは置戸、そして地面。
薯畑のまん中に突っ立って会図をおくる。
微笑んでもいい。
昼の雷、崩れてのびろ。
「堅固でねぇ」
ビッサウの薯畑に、十月の糸の様な雨が降ると、しなびた茎や葉を掻き集め、きちんと築いた山。「ときどき喘息に」まだ燃えあがってはくすぶる山のひとつに、カシュバイ人の女がしゃがんでいるはず。
その四枚重ねのスカートには、太鼓たたきオスカルの不運な母の、甘美な出生の秘密がかくされている。先端のこげたはしばみの枝を熱い灰の中にさし込んで、女たちは代々ふたつめのジャガイモをとり出し続けてきた。

地面では、近隣総出の収穫が始まる。
手伝う子供にも、紅丸の分配はある。
数日たてば、ただっぴろい薯畑に雪虫が飛び、ほどなく初霜も光り、ならされたうねに堀り残しの小薯もしばれかけて、拾い薯の候である。
阿寒湖からはチニタキ(春にれ)の店をやってるみどりちゃんも呼ばれて来る。
みどりちゃんのボッチ(しばれいもダンゴ)ときたら、天下一品。
まるくてひらべったい、ちょうどいい具合にまとめたボッチを、フライパンでじっくり焼いて醤油を「じゅっ」とたらして皆で食べる。
順三郎男爵よ太れ。
紅丸は澱粉質を貯えよ。
神様の舌はみどり。
薯畑のまん中に突っ立って空をにらんでいる順三郎の表情はいいな。
なにか、根本的に不足しているものに身を焼いているというふうなのだ。
置戸はダムの方角に夕月、望月のほんのりひと皮。

 

ふじた たみこ(詩人)